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Partner der Semperoper - Die Gläserner Manufaktur

ゼンパーオーパーの歴史

戦後のゼンパーオーパー

ドレスデンのオペラは、70年代の初めに新たな盛期を迎えました。首席演出家ハリー・クプファー、オペラ監督ホルスト・ゼーガー、音楽総監督ジークフリート・クルツが新時代を築き、因習にとらわれないレパートリー、深みのある挑発的な演出スタイルが展開されました。ドレスデンは、再びオペラ・ファンの話題となり、ウド・ツィンマーマン等の新作も上演されています。この時代の代表的な舞台は、《モーゼとアロン》の社会主義体制内での初演(1975)。『フランクフルター・アルゲマイネ』紙には、「今後に影響を与える決定的公演」と評されています。1985年にゼンパーオーパーが再建開場され、ヨアヒム・ヘルツによる《魔弾の射手》と《ばらの騎士》で幕を開けると、さらに活発な活動がスタート。ルート・ベルクハウス演出の《エレクトラ》(ハルトムート・ヘンヒェン指揮)、ヴォルフガング・ワーグナーやテオ・アダムのワーグナー演出が、大きな話題を呼びました。後者はドレスデンを代表するバスバリトンであり、ゼンパーオーパーの名前を国際的に広めています。


978年にはドレスデン音楽祭が設立され、ドレスデンは国際的な音楽シーンに組み込まれるようになりましたが、東ドイツの政策はオペラ上演にも暗い影を落としていました。しかしドイツ統一とザクセン州の新設によって、ドレスデン国立歌劇場はさらに国際的に認められるようになりました。1991年以降、インテンダントはクリストフ・アルブレヒトが担当し、2003年にはゲルト・ユッカーがこれに続きました。2008年には、長い空白の後に日本公演が再び実現。ドレスデンではふたたび国際的なソリストが歌い、90年代にはジュゼッペ・シノーポリがシュターツカペレの首席指揮者に就任して、広く活躍しました。彼はしばしばオペラのタクトも取り、中でも《影のない女》の名演は、語り草となっています。


ドレスデン国立歌劇場の名声は、400年以上の歴史を持つそのオーケストラと不可分でしょう。シュッツ、ハッセ、ウェーバー、ワーグナーの作曲家たちと演奏し、シュフ、ブッシュ、ベーム、カイルベルト、ケンペといった巨匠指揮者たちと共演を重ねたシュターツカペレは、ドイツ随一のオペラ・オーケストラとして、高い評価を獲得しています。
マティアス・ヘルマン(『オーパンヴェルト』誌2009年3月号より引用)

ゼンパーオーパーの再開場

1985年2月13日、ドレスデン国立歌劇場は国際的な注目を集めるなか、再開場されました。

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戦後再建されたゼンパーオーパー

ゴットフリート・ゼンパーの設計を元にした再建


~ウェーバー《魔弾の射手》(ヴォルフ=ディーター・ハウシルト指揮ヨアヒム・ヘルツ演出)、R・シュトラウス《ばらの騎士》(反ス・フォンク指揮ヨアヒム・ヘルツ演出)、ジークフリート・マットゥス《コルネッツ・クリストフ・リルケの愛と死をめぐるメロディー》初演(ハルトムート・ヘンヒェン指揮ルート・ベルクハウス演出)、ウド・ツィンマーマン《燃える平和》初演(ハラルド・ヴァントケ振り付けのバレエ)によるリオープニング~


1946年から55年にかけて、廃墟となったゼンパーオーパーを維持する工事が行なわれました。1977年6月24日に、再建がスタート。1984年には建物が完成し、技術のチェックとリハーサルが開始されました。1991年には、名称が「ドレスデン国立歌劇場」から「ザクセン・ドレスデン歌劇場」に改名。1986年には、当時の首席指揮者反ス・フォンクにより、1945年2月13日のドレスデン大空襲を記念する演奏会が開始されました。2002年のエルベ河大洪水により、8月から11月にかけて公演が中止。ドイツ全土から助けの手があがり、イタリアや日本の観光客が瓦礫の除去を手伝いました。また様々な国から、多くの寄付が寄せられています。


ドレスデン国立歌劇場では、再建後レパートリーを常に拡大し、スタンダード・レパートリーの他、新作初演ならびにドレスデン初演も積極的に行なっています。B・A・ツィンマーマン《兵士たち》(フリーデマン・ライヤー指揮ヴィリー・デッカー演出)やゼンパーオーパー再建10周年に上演されたトロヤーン《大魔術》(ジョナサン・ダーリントン指揮アルベルト・ラング演出)がその例に当たります。また比較的上演頻度の低いヨーロッパのオペラ作品、アメリカのオペラ、バロック・オペラなども、レパートリーに取り上げられています。


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歴史を刻んだオペラ

《ペンテジレーア》と《カルディヤック》の上演は、ドレスデンにおける20世紀のオペラ上演の歴史を映し出す鏡と言えます。

このふたつの作品は、新設されたゼンパーオーパーで両世界大戦の間、すなわち20年代に初演されました。両者が上演されたことには、現代オペラを好んで取り上げた音楽総監督フリッツ・ブッシュの肩入れが大きく関わっていました。初演が行われたのは、ワイマール共和国の時代であり、通貨改革によって経済が進展。内外の政治も比較的安定した時期にありました。ブルジョワと軍隊の力は依然として存在したが、市民には自由が許され、エンターテインメントが発達していました。同時に100万人にわたる失業者が存在し、また政治は自らの支持層を優遇する政策を行なっていました。芸術の分野では、一般市民を驚かすショック・アートが全盛を極めていました。つまり、安定とは見せかけのものに過ぎなかったのです。1924年から29年は、「黄金の20年代」と呼ばれますが、経済の失速により、その輝きは衰え始めました。オトマール・シェックの《ペンテジレーア》(1927)では、男女の戦いがテーマとなっています。主人公の愛は、行き場がなく袋小路に立たされます。彼女は愛するアキレスを引き裂き、その死体の上で死を迎えるのです。パウル・ヒンデミットの《カルディヤック》(1926)は、天才的な金細工師です。彼は謎に包まれた存在で、分裂的な性格を持っています。しかし彼をめぐる事件の真相は分かりません。少なくとも確かなのは、彼の宝石を買った客は、そのすぐ後に殺人事件の犠牲となるのです。宝石の行方は分かりません。ヒンデミットは、このロマン的な題材に、モダンで先進的な音楽を付けています。


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火災後新設された王立宮廷劇場

ゴットフリート・ゼンパーによる設計、その息子マンフレートの監督のもと建立


~1878年2月2日、ウェーバーの「歓喜の序曲」、ゲーテの『タウリスのイフィゲーニエ』で開場。再建も大議論を引き起こし、ゼンパーを建築家とするか、再建か新設かで激しく争われました。ゼンパーは1849年の5月蜂起に参加しており、彼が適任であるかが疑問視されてたためです。市民の間で署名運動が行なわれ、これが決め手となり、ゼンパーによる新設劇場の決断が下されました。これにより、ドレスデンでは1世紀の間に最新の美しい劇場が、2度も建てられたことになります。1895年まで、宮廷劇場はオペラと演劇の両方で使われていました。1882年より宮廷歌劇場の監督を務めていたエルンスト・フォン・シュフ(音楽総監督)により、リヒャルト・シュトラウスのオペラがレパートリーの中核を占めるようになり、数多くの初演が行われました。すなわち《火の欠乏》(1901)、《サロメ》(1905)、《エレクトラ》(1911)等です。第1世界大戦が終わり、ザクセン王が王位を放棄すると、宮廷劇場は「ザクセン国立劇場 Sächsische Staatstheater」に改名されました。1922年には、フリッツ・ブッシュが音楽総監督兼オペラ監督に就任。彼のもとでシュトラウスの《インテルメッツォ》(1924)、《エジプトのヘレナ》(1928)、《アラベラ》(1933)が初演されています。またブゾーニの《ファウスト博士》(1925)、ワイルの《プロダゴニスト》(1926)、ヒンデミットの《カルディヤック》(1926)の初演も、ブッシュの力で実現しました。なお、ブッシュは1933年にナチスにより解任されています。1934年には、カール・ベームが音楽総監督、オペラ監督に就き、シュトラウスの《無口な女》(1935)と《ダフネ》(1938)を初演しました。1944年8月31日、ゼンパーオーパーの上演は、「全面戦争」のために無期延期されました。最後の上演は、ウェーバーの《魔弾の射手》でした。1945年2月13日から14日にかけての夜、ゼンパーオーパーは空襲によりほぼ完全に破壊されました。


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最初の王立宮廷劇場

ゴットフリート・ゼンパー設計による劇場


1841年4月13日にウェーバーの「歓喜の序曲」、ゲーテの戯曲『トルクァート・タッソー』で開場。フリードリヒ・アウグスト2世は、1838年、4年にわたる賛否両論の後、ゴットフリート・ゼンパーに新しい宮廷劇場の建立を命じました。劇場の建設により、文化大国としてのザクセン王国の名声が、ヨーロッパ中に広がることを狙ったためです。そのための資金は、王自身が賄うこととなっていましたが、1839年に国会に支払いを要求すると、その権限をめぐり、憲法論争が勃発しました。ゼンパーの元々の計画では、ドレスデン・フォールムの名のもとに、絵画館、オランジェリー、劇場の3つの建物が新設されることになっていました。ワーグナーは、この劇場で世界的な名声を博する足掛かりを得ました。《リエンツィ》(1842)、《さまよえるオランダ人》(1843)、《タンホイザー》(1845)がここで初演されています。ワーグナーは社会の変革を望んでいました。「現在の社会は情勢を見る力を欠き、その義務を成す意識を持っていない。人々の既存社会への逃走が始まったのである」1849年の5月蜂起に参加したワーグナーは、ドレスデンから逃亡せざるを得なくなりました。それから20年後の1869年9月21日、「最初の」ゼンパーオーパーは、火災により消失しました。


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